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尼崎印刷の文字組版の歩み
昭和16年に国の方針に基づき、市内6社が合併させられ、
戦前の尼崎中学校(現・県立尼崎高校)の対面にあった尼崎紡績(現・ユニチカ)の社宅用地に約1,600平方メートル(500坪)の敷地に尼崎印刷が設立された。
同社は戦災に遭うことなく終戦を迎え、分社化の話がもたれたが、当社の創業者・田治一三が終戦直後の昭和20年9月に買収に踏み切った。
戦後の混乱した時代の中で印刷業界の将来は誰にとっても見通しのつかない状態であったと思われる。ただ戦災を免れたことによって昭和20~30年代には阪神間では活字の保有量ではトップクラスであった。

ガラス活字の誕生
第二次世界大戦の始まる以前の日中戦争の頃(昭和10年代)からすでに日本では戦争遂行のための軍需物資の枯渇が予想され、その打開策としてとられたのが日米開戦の口火となった日本軍の南方占領であった。
その一方で国内では不要不急の金属の回収が図られ、寺の梵鐘、学校の二宮尊徳像、婦人の貴金属が徴収された。


しかし国の金属回収政策も巧妙で、中小企業を廃業か存続のふるいにかけて、廃業であれば、その会社の持つ物資を今で言う回収ルートに乗せ、しかるべき軍需工場で使用する原材料にした。一方、存続を願う中小の合併会社にはその条件として金属を国へ供出させて、その回収に徹した。

印刷業界からの回収策としては、当社の創立50年史制作時にその書類が資料として残っていた。その趣旨は“業界の戦力増強企業整備に当たり2月14日附兵庫県兵物統第308号を以て貴社を操業工場と決定するが、但し金属供出量である鉛(活字等)100貫也を供用のこと”とある。今となってはその合併企業の規模を量ることは出来ないが、中小の印刷会社での鉛100貫也はやはり大きな負担ではないかと思われる。

このような状況下で鉛活字の代用品として登場したのがガラス活字であった。なるほど融点と印刷時に用紙に当たる軟度は比較的鉛に近いようだ。ガラスであれば生活用品の中にあるものでその回収も比較的しやすいものであった。ただその難点は脆さであった。このことから当社に残っていたリンゴ箱2杯のガラス活字は全て初号であった。

昭和30年代後半~40年代、
日本が高度経済成長に入るとたちまち人手不足になり、特に新卒者は大企業に大量に吸収され、中小企業のまして印刷業界に参入する者もなく、この業界の職人仕事である活字に携わる文撰・植字工はまさに金のわらじを履いて探すような状態であった。

この打開策としてオフセット化による写真植字機が脚光を浴びたが
大量の文字を採字・修正する作業ではとても現場の要求に応えられない。そのような中で国産の実用に耐えられる電算写植機が富士通によって開発され、昭和46年、関西では「日本コンプ」が出力センターとして発足した。
当社も穿孔機を導入して紙テープに入力し、そこからの文字出力を外部に依頼して活字組版からオフセット印刷への転換を積極的に図った。だが10年後には文字出力を外部に依存するにも限界に達し、モリサワライノトロン202Eを導入し、1年後には活字の設備を全廃した。
活字の全廃に至るまでの10数年の経過では、やはり活字による組版のメリットも十分活用して清刷(きよずり)なるものをオフセット印刷の版下に利用したりした。活字だと文撰・植字はお手の物で、待っている間に数十ページぐらいは1日で処理し、赤字訂正も活字の差し替えで簡単であった。
昭和56年に導入したライノトロンはもっぱら棒組みの印画紙出力のみであった。
かつての文撰工はキーボード入力、植字工はハサミと糊での貼り込みの仕事に専念してもらった。
当社も脱・活字と画面上での編集処理を目指して富士通に始まりライノトロン、富士通IPS、モトヤのビデオジャム、トレンドエース、住友金属のエディアン、と目まぐるしくその変遷をたどった。